どーも。オーディオブックを2倍速で聞くと集中しすぎて周りが見えなくなってしまう、公平です。
さて、今日は、中国を発端とする思想、
について、お話しいたします。
【そもそも、「性善説」、「性悪説」とは?】
皆様は、「性善説」、「性悪説」という言葉をどこかで耳にしたことはありますか?
おそらく、あまり聞きなれない単語かなと思います。
簡単に言うと、
人間の本質が善なのか悪なのか
という考え方のことですね。
ご存知の方の中でも、この言葉を、
として、誤解されている方も多いと思います。
ということで、まず最初に定義から。
【性善説】
性善説(せいぜんせつ)とは、人間の本性は基本的に善であるとする倫理学・道徳学説、特に儒教主流派の中心概念。人の本性に関する考察は古今東西行われてきたが、「性善説」ということばは儒家のひとり孟子に由来する。孟子の「性善説」とは、あらゆる人に善の兆しが先天的に備わっているとする説である。善の兆しとは、以下に挙げる四端の心を指す。なお「端」とは、兆し、はしり、あるいは萌芽を意味する。
1. 惻隠…他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」(憐れみの心)
2. 羞悪…不正を羞恥する心
3. 辞譲…謙譲の心
4. 是非…善悪を分別する心
【性悪説】
性悪説(せいあくせつ)とは、紀元前3世紀ごろの中国の思想家荀子が、孟子の性善説に反対して唱えた人間の本性に対する主張。「人の性は悪なり、その善なるものは偽(ぎ)なり」(『荀子』性悪篇より)から来ている。 ここで言う悪とは、「(人間は様々な意味で)弱い存在」という程度の意味であり、「悪=罪(犯罪あるいは悪事)」という意味では無い(「弱い存在」である人間が、犯罪や悪事に手を染めずに一生を終える、という事もありうる)。また、偽とは、「人の為す行い」という程度の意味であり、「偽=嘘あるいは偽物」という意味ではない(後述のように、後天的な努力や習得によって初めて獲得する性格のものと捉えている)。
(引用:『Wikipedia』より)
要するに、
「人は生まれつきは善だが、成長すると悪行を学ぶ」というのが性善説
「人は生まれつきは悪だが、成長すると善行を学ぶ」というのが性悪説
だということです。
つまり、「人を信じるかどうか」というのは別次元の話であって、
どちらの見解でも共通するのは「人は善いことも悪いこともする」ということです。
【孟子〔性『善』説〕 vs 荀子〔性『悪』説〕】
(引用:『自己啓発。人生について考える』より)
「性善説」と「性悪説」、どちらも「善いこと」も「悪いこと」もする立場であり、
違いは、それらを身につける順番だけが違うということですね。
では、皆様は自分でどちらの立場であると思いますか?
人は生まれたときは無垢な存在だから「性善説」?
成長してルールやマナーを覚えていくから「性悪説」?
よく個人的に、距離が近くなった方に、この質問をさせていただくことが多いのですが、
答えとしては7割くらいが「性善説」 、残りの3割くらいが「性悪説」という回答のような気がします。
別に、この答えは正解、不正解などありませんので、どちらの立場を支持しても問題ありません。
もちろん、「政治」や「宗教」について易々と質問できるわけがないので、
そういった意味でも、この質問は気ままに質問できる点でも面白いんです。
何が一番面白いって、その人の人間性が現れていること。
つまり、その人が世界を見るためのメガネはどのようなものをかけているかが分かるからなんです。
…あ、その答え云々によって、その人と距離を置こうとはなんて、もちろん考えませんのでご安心を(笑)。
ちなみに、僕は
なんて曖昧に答えています。
というのも、「『善』=高次の『欲』」という図式があるからです。
人間として欲求を持つことは、当たり前のことですよね。
ましてや、生命を維持するための食欲や睡眠欲は、生きる上で必要不可欠です。
もちろん、『欲』が飛び抜けてしまうと、『悪』に転じてしまいます。
いつでも自分中心の、私利私欲が『善』なわけがありません。
(多少のエゴは必要です。以下の、記事をご参照ください。)
↓↓↓
利他に生きる、その前に「利己に生きる」だろう。エゴと共存することが、協力し合う社会への道。
でも、マズローの欲求5段階説ではないですが、高次の『欲』があるからこそ、世界は徐々に進歩してきたんです。
(引用:『Kaizen Base カイゼンベース』より)
そして、この高次の『欲』と言うのは、生まれたオギャーの瞬間に持ち得ないですよね。
この世に生を受けて、「よし!世界を変えよう!」なんて考える赤ん坊はいません(笑)。
生理的欲求の上にある高次の欲求は、後天的に身に付けるものです。
なので、いろいろ勉強したり経験したりすることで『善』を身にまとう…
ということで、「性悪説」だと思うのです。
でも、「性善説」を信じたいというのは、この高次の『欲』は表面に出てきていないだけで、
もしかしたら、神様が平等に心の奥底に潜在的に眠らせているのかもしれない、というか、
そう信じられれば、自分のメガネの色も変わるんだろうな〜、という希望があるからです。
だから、僕個人としても、本当は「性善説」の方に傾いているのかもしれません(笑)。
【結局、人間って、「性善説」でもあり「性悪説」でもある。】
ここまで、いろいろと考えを述べてきましたが、
なんて言ってしまえば、身も蓋もありませんね。
だけど、先ほど述べたように、人は「性善説」と「性悪説」のどちらの考えもあるのだと思います。
どちらも、共通のものとして『悪』に染まらないように努力する点では同じですので。
特段、僕は『孟子』も『荀子』も読み解いたわけではありませんので、大それたことは言えませんが、
世の中は、「『善』が何か」とか「『悪』が何か」なんて、そんな白黒ハッキリと分けられるものでは無いです。
どんな善い人でも、人によっては悪いことをしてるなぁと思う人もいるだろうし、
どんな悪い人にでも、仕方なしに悪事を行ってしまうことが多々あると思います。
この『善』と『悪』の話をするとキリがありませんので、ここら辺で終わるとして、要は、
自分の思う『善』と『悪』をバランス良く備えることが大切なんだと思います。
なので、「性善説」に寄り過ぎてるなぁ、と思えば「性悪説」の考えに寄れば良いですし、
「性悪説」に寄り過ぎてるなぁ、と思えば「性善説」の考えに寄れば良い、ということですね。
その『善』と『悪』のバランスを上手く取れるからこそ、人間って愛おしい存在なんでしょうね…。
それでは、今回これにて失礼します。
皆様に、心よりの感謝を込めて。
公平